昭和57年1月4日   朝の御理解

                    
x 御理解64節                        「此方は参って尋ねる所がなかった氏子はおかげ受けて遠路の所を参って来るが信心して徳を受けて身凌をするやうになれ」                  


 先日の研修の時に霊徳を受けて神徳を兼ね備えていかなければ本当の人間の幸福、あの世この世を通して助かって行く事は出来んと言う意味の事を頂いたんです。 
 けども霊徳と言うのは私共が人間は万物の霊長と言われるその霊長としての値打ちが発起されると言う事なんですね。それが霊徳です。御神徳と言うのはどこまでも天地の芯に通うと言うか、まあ言うならば天地の御信用を受けると言う事なんです。そこにあの霊徳神徳が兼ね備えられてですね。万物の霊長、いわゆる霊感と言うかね。そう言う働きがお互いのあるんだけれども。それが何かの障害によって包まれたり隠されたりしておるわけです。それが出てまいりますといわゆる霊徳が大変秀れて来るわけですね。
 御神徳と言うのはどこまでも天地自然の言うなら道理にかのうた、言うなら天地の心を心とする生き方をいよいよ身を持って行じしていく時にいわゆる天地一如と言ったような世界が開けて、いわゆる天地の信用。久留米の初代が御神徳と言うのは、神様の御信用ぢゃと仰らせられとったそうですが。確かにそうだと思うですね。どうでも霊徳、神徳を身に付けていわゆる神様が願うて下さるおかげの世界、お徳の世界に入らせて頂きたいと思う。
 昨日、久保山先生の十五年の式年とお母さんの五年の式年が丁度今年、勿論月日は違いますけれども今年になっておりましたから、先生の霊、いわゆる御夫婦の霊のお祭りを私が奉仕させて頂きました。もう本当に、もうそれこそまあ何て言うでしょうか。もう見事と言うまあ表現につきると言う、見事な霊祭でした。
 勿論それを奉仕する子供達も息子達が三人、それに高松和子先生、それにその子供達が皆そろうてもう見事にまあ成長のおかげを頂いております。本当にまあ霊様、お父さんの霊様がどんなにかお喜びで下さるだろうかと言う感じの霊のお祭りでございました。
 お祭りも終わらして頂いて控えに下がらせて頂きましたら、若先生がもういつもの事ながら、神様のいわゆる叡智による御理解と言うか、御理解にはもう度々の事ながら恐れいってしまいますねえ。神様の智恵と言うか、そのもう本当只恐れ入ってしまうと言う意味の事を言うんです。
 昨日の霊祭のあとに頂いた御理解を自分も頂いておりますから、それがあまりにも適切な御理解だったもんですから、まあそう感じたんでしょうね。けどもいかにね、いかに例えば適切で素晴らしい御理解であってもね。それをいよいよ実験しよう実証しようとする構えを作って、それを実行しなかったら、どんなに素晴らしい御理解でも死んでしまうからねと言うて話した事でした。
 今朝から私はお夢を頂きましたのに、まあ長いお夢でしたが、そんな中にz『合楽で頂く御理解は徳のしずく』と頂いたんです。徳のしずくね。『それが積もり積もり溜まってダイヤのような光にも輝きにもなる』と言う事を頂いたんです。すると今日の御理解なんです。此方は参って尋ねる所がなかったとこう言われるね。ところが皆がここに参って来る者は言うなら尋ねる事が出ける。
 真の信心とはと言う思いを願いを持ってくると真の信心とはと、それは信心の程度程度に応じて、いわゆる金光大神が御理解を下さる。だから信心をして徳を受けて身凌ぎをするようになれと最後に仰っしゃっておられます。金光大神が教えて下さる事を行じると言う事は、行ずると言う事は信心すると言う事はね。お徳を受けると言う事なんです。
 昨日若先生が申します様にいつもの事ながら恐れ入ってしまいますよねえと。したら昨日霊祭後の御理解頂いてですね。いわゆるまあ感心する。けども感心しておる、素晴らしか素晴らしかだけではつまらんです。それが実験実証されてはじめて、それが言うならば徳のしずくと言う事は、こりゃあやっぱ神様が私を通して直接教えて下さる事だと思うですね。
 徳のしずくです。それが頂き頂き積もり積もっていわゆるダイヤのような輝きにも光にもなると言うのですから。これを頂き続ける事にいよいよ生き甲斐を感ずる。これを頂き続ける事にいよいよ喜びを楽しみを言わば感じさせて頂くところのおかげ、それに合楽理念に基づく生き方ですから、もう間違いなく霊徳も頂けるだろう、御神徳も頂けると言う所になるのぢゃないてじょうかね。
 昨日霊祭で頂いておる、御神前で頂いたのが、今はあるかないか知りませんけど。z森永のミルクキャラメルと言うのが昔ありましたよね。私共の子供の時には五銭箱と十銭箱とあったんです。十銭箱ならちょっと長くなっておるし、五銭なこまい。皆さんも覚えておられるでしょうね。その『十銭箱』の方を頂くんです。長い方。して御理解にです森永。森と言う字は木を三つ書いてあるでしょうね。言うならば久保山の男兄弟三人がね。まあ遠い所から、東京からやってきてますよね。もう元旦祭を頂くと同時にこの霊祭を頂く為に帰って、夫婦で帰って来ております。その三人の兄弟が心を合わせると言う事は森と言う字になるでしょうがね。十銭と言う事ね。
 十銭箱と言う事は私は合楽で今言われておる所の実験と思うですね。実践すると言う事です。あれのマ-クは、こうエンゼルて言うですか。あの天使が羽ね。逆立ちしとる所でしょうがね。まあ言うならば神の使いと言うてもいいでしょう。まあ言うならばここでは私が神の使いとして、神の心を皆さんに伝え、皆さんの願いとか、皆さんの願いを言うなら神様へ私がお伝えする、それを取次ぎと言うわけでしょう。
 言うならお取次ぎを頂いて教えの実践からね。まあキャラメルと言うのは私共が子供の時にまあおやつ程度に貰らったわけなんですがね。おやつと言う事はおかげと言う事だと思うですね。そりゃもうキャラメル位なおかげと言うのは、いかにも子供扱いのようですけども、私共はね。おかげと言うのはまあ神様から頂くおやつの様なもんです。お願いをして金銭のお繰り合わせを頂きました。お願いをして病気が治りましたね。
 と言うのは、言うならキャラメルのようなもの。だからそう言うキャラメルのようなおかげを頂く為にはね。私その霊神様の前に出ましたら、皆さんあちらへおいでられた方はご承知でしょうけど、昔の家、今はもう建て治りましたから。その中庭に見事な木のしだれ梅がありましたよ。その根元にもうそれこそ畳こう二枚位ぱーっと大きなもう真っ赤なツツジが咲くツツジが根元にある。
 そのツツジとそのしだれ梅で大体庭の形を作っとると言う様な、もう兎に角花が咲いた頃に私が一遍あちらにお世話になったんですけども。もう兎に角あの庭の方の障子が赤なるようにその素晴らしいツツジでした。
 そしてその時分にあのしだれ梅が久保山先生であの根元の真っ赤なツツジがお母さんだと言う様に頂いておったが、zそん時の庭をそのまま頂くですよね。霊神様の前でそしてね、もう久保山先生夫婦がもうそれこそまあだ若々しうニコニコとしてこう身体を合わせる様にして座っておられる。そしてこの顔の所にですね。何か何ちいうでしょうかね。あの黒い馬糞紙のようなものが、ここにこうやってはさがっておるんです。それを後ろから誰かがすーっと引いた所を頂いた。だから久保山先生方夫婦と言うのは亡くなられ霊の世界に入られて初めて夫婦としての言うならばこう一つも障害のない本当に魂と魂が呼吸し合えれるような世界が開けられたんだなあと私は思いましたね。
 神愛会の時分に言うならば初代の教監としてお取立てを頂かれた久保山先生ね。当時から婦人総代としておかげを頂かれておったお母さんね。もう言うならこの世でひとつ位を頂いておったその位があの世に行っていよいよ夫婦の間に言うなら、何て言うでしょうか。障害のない、言うなら本当に夫婦の心と心に呼吸が、呼吸しあえると言う事はもう、物はいらんでしょうがね。
 阿吽の呼吸と言う様な事をと申しますが、その呼吸が合うと言う事です。信心は天地の親神様との間に呼吸が合うと言う事なんです。呼吸が合う、そこから交流が始まるのです。霊様を大事にすると言う事はその霊様との呼吸なんです。それが霊祭なんかを仕える時には、特別、ならばお父さんの好きであったものを、お母さんがこんなものが喜びよったからと言うて子供達がそれこそ真心こめてね。まあ何と申しましょうか。もうおしげあしげないお祭りが出けると言う事。本当に両親が喜んでくれてるだろうと言う、その思いと言うものは、両親もやっぱり両親との間に呼吸が出けた。交流が出けたね。
 ですからその兄弟三人の者がね。お母さんが真っ赤なツツジのような信心の熱情を燃やした。久保山先生は皆さんもご承知の通り辛抱しぬかれると言うあの御信心ぶりと言うものが、それこそ、その梅の花でもあった。昨日あちらの長男の嫁である陽子さんが、私は昨日初めて聞いたんですけども。あのツツジとそのしだれ梅はどげんなったかねって聞いたら。それがね。もう二本とも枯れたち。
 もう大きな木でしたから、もう上の方はすぐ木が折れた。梅の方も熟れとったけども。結局つがらなかったち。けれども不思議な事に私が久保山の家に嫁に行って初めてあの木が倒れる年に梅が一つになりましたち。ありゃ全然ならなかったそうですね。ほうそげなこっちゃったのち言うてね。ああ言う梅のならないものが実をつける時には、もう枯れる前だそうですね。自然の摂理です。
 自分の後を残さなんならんから実がなるのです。だからそう言う中から中でも、いかに親達が自分の信心を残しておきたいと言う祈り願いを持っておったかと言う事が分かるぢゃないですか。ですけど、その息子達三人が信心がないわけぢゃない。三人ともその熱心ぢゃないけれども、やはり真ん中は東京の支部長をしとる位ですからね。信心が出来ますけども、三人が力を合わせてそれこそ神様と呼吸が合う様な。霊様と呼吸が出来るようなあり方にならせて頂いたら、言うなら今言う合楽理念の実験実証させて頂いたら、キャラメル位なおかげは頂けるんぢゃなあと言うて昨日話した事でした。 やはり皆が願っておるおかげは頂けれる。それから御神徳を頂くと言う事はまた別なんです。おやつ的なもんぢゃない。それはいよいよ合楽理念に基づく言うなら生き方を徹すると言うか。これは御神徳を頂くと言う事は問題は神様の御信用が頂けれる私になる。こりゃもう限りがないと言う事なんです。
 限りがないと言う事はもう言うなら小学校から中学校、中学校から高校と言うふうにですねえ。いわゆるその過程を踏んで信心を進めて行くのです。先だって石田先生御夫婦、もう兎に角毎日毎日が有難うして有難うしてと言う毎日を過ごされます。子供達にもこの信心を伝えたいと思うね。先だってはお取次を頂いて子供達にも話したね。けれども親達が有難い有難いと思うとるほどしに子供達は分かっていない。
 もうこの頃はもう年のせいぢゃろか、うちの両親は合楽さんにぼうけてしもうてからと言うふうに思うとるかも知れん、思うとるだろうと思うんです。二日の日だったでしょうか。元旦祭のもう元旦祭に一家中でお参りするつもりぢっゃた。ところが親先生もう聞いて下さいと言われるわけですよ。私共はこちらへ参らせて頂いたが息子達は家族中で久留米の成田山にどんお参りしとるち言う。もうそれこそ先生の心がこうやって乱れるわけですよね。 それをまあお母さんがそりゃもう信心がまあだ分からんとぢゃからと言うてまあなだめられたと言うお届けを聞かしてもらいました。だからねこれはね。和すれば乱れる事はないと仰っしゃるが、小さい事なら和すれるけど、中位になったらもう大きな事になったら、もう乱れ取ると言う様な親が子を思う情念と言うものが強ければ強いほどだけども、これはどこまでも人情なんです。
 皆さんもそう言う体験があるでしょうが。もう皆さんの場合はあきらめとると言ったような場合があるかもしれません。はあうちの嫁子に信心させたい。うちの息子達にもと思うてね。はじめの間は思い寄った。反対のありゃみょうなもんですよね。わざわざ神様が反対な事をさせなさるです。                  ここを一つね。もう本当に乱れずにこう受けていけれると言う。こう言う意味での稽古はもう限りがないですよ。そこにね、言うなら和賀心の和がいよいよ豊かに大きく育っていくのです。ですから楽しみでしょうが。豊かな心が大きうなっていけばおかげも大きうなっていく事間違いないですね。
 有難い有難いとこう思う。そこで神様の言うなら試験の様なお試しのようなものです。どの位有難いか調ぶうかちね。そのようにして言うならば和賀心がいよいよ育っていって、それこそ合楽で頂くところの御理解をね。本当に神様の氏子信心しておかげを受けてくれよ。お徳を受けてくれよの切なる願いがまあいうならば御理解になって表われておる。その合楽の御理解そのものはもう徳のしずくである。
 そのしずくが積もり積もってダイヤモンドのような輝きにも光にもなると仰せられるのですから。私の若先生が言う、いつもの事ながら恐れ入ってしまうとこう。だから恐れ入っとるだけぢゃでけんて。それを実験しいわゆる十銭のキャラメルでなからな。     実践しなければね。そこからね。言うならまあキャラメル的なそれこそおやつも頂き、おやつ的なおかげも頂けれるだろうしね。それが積もり積もり貯まり貯まって、身凌ぎの出来る様な御神徳を受けて行く事も出けると言う事になるのです。
 私は今日、それこそ毎日の言うならば信心の驚きと喜びにひたっておるのでございますけれども。昨日そんな事を若先生が言うておった事をふっと今朝方からのお夢と今日のこの御理解と言うのがピッタリ合うでしょうが。これは毎日の場合です。 
 これだけでもね。成程合楽の御理解は徳のしずくだと言う事が分かるでしょうが。だからその徳のしずくを皆さんが右、左したら。いつまで経っても御神徳にはなりませんよね。
 御神徳を頂く、霊徳を頂く。神徳、霊徳が兼ね備えられてね。人間の幸福の条件で人間世界だけではない。あの世までにも、持っていけれる。言うならばダイヤモンドの光にも似たようなお徳を受けてね。そう言う私はおかげを頂きたいと言う人は教団の中にも沢山あるのぢゃなかろうかと思いますね。
 ですから合楽に一度傾倒してくると、もう合楽の信心に傾倒していかれる例がいくらもありますように、只おかげさえ頂けばよかではなくて、何とかして御神徳を頂きたい。勿論霊徳も受けたいと言う人達がです。霊徳、神徳が受けられるお話を合楽では頂いておるのですから、それをいよいよ自分達の生き方の中から血に肉にもしていくと言う、して行こうと言うね。
 昨日の瀬戸美喜雄先生のあの年賀状を読ませて頂いたようにね。本当に親先生の真似でもよかけん、させてもらおと思いよるけれども出けんと。思いよるけんぢゃでけんてね。先生は言い切っておられますね。合楽の親先生の真似でもいいと、こう言うておられます。 親先生が頂いておられる神様を頂きたいとね。そう言うね。信心の構えをいよいよ作って。いわゆる徳のしずくとも言われる合楽の御理解をです。いよいよ頂く事の楽しみ、喜び。本当に素晴らしいといくら素晴らしいと言うてもね。それを実践しなかったら、いかに合楽の御理解が徳のしずくのような尊いものであっても、なあにもならんよと私は若先生に、昨日話したような事の結果になってはつまらんでしょうね。
 どうぞ皆さん本気で合楽の御理解の頂く構えを作って頂きたいと思います。「どうぞ」